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【小説】【ネタバレあり】『恋とか愛とかやさしさなら』(一穂ミチ)~「わかりたい」を諦めない~

読書中、こんなに自分に照らし合わせて考えた小説って

今までになかったのではないかしら・・・

語りたい欲が強すぎてまとまらない気持ちを、

なんとか無理矢理にでもまとめて、記事にしたいと思います。

あらすじ

カメラマンの新夏(にいか)は、5年付き合っていた彼氏・啓久(ひらく)から

ついにプロポーズされて、OKを出す。

しかしその翌日、啓久が盗撮で捕まったと連絡を受ける。

被害者とは示談が成立し、前科はつかないという。

しかし、新夏は納得がいかない。

啓久は、幸せの絶頂の最中で、なぜそんなことをしたのか?

自分は彼の罪を許せるのか?

答えの出ない問いかけに翻弄される二人の物語。

感想

新夏の立場になって考える

例えば、自分の家族が盗撮をしたとしたら、どうだろう。

身近な人ほど、許せなくなるかもしれない。

 

じゃあ、親友が万引きをしたら?

家族のような責任を負う必要はない。でも自分にとって大事な人。

これからもずっと仲良くしていきたいと思っていた人が、

罪を犯したとしたら、どうだろう。

「ヤバい人だ」とすぐに縁を切れるだろうか。

 

新夏にとって、啓久はまだ家族ではない。

でも一緒に過ごす未来を想像していた大好きな人。

啓久が盗撮をした瞬間の気持ちを聞いてみたけれど、

その気持がまったくわからない。理解できない。

この人と、自分は一生一緒に生きていけるのだろうか。

そこに疑問を感じてしまった時点で、もう終わりのような気がする。

でも彼を切り捨ててしまったら、自分にも傷が残る程度の愛情は残っているのだ。

 

新夏が答えを出せない間にも、いろんな人が、いろんな意見や助言をしてくる。

「あんなやつ、別れたほうがいい」

「そんな軽い罪を気にして別れるなんてもったいない」

 

自分が納得できる答えを出せるのは自分だけなのに、

周りの目が気になってくる。

自分がどうしたいのか、だんだんわからなくなってくる。

啓久の立場になって考える

物語の中盤、新夏は自分がどうしたいのかを知るために、

思い切った行動に出る。

啓久に女子高生のコスプレをさせて、自分が彼のスカートの中を

スマホで盗撮する、という実験をするのだ。

だけど、撮れた写真は何が写っているのかもわからない一枚。

啓久の顔を真正面から撮影してみるけど、これも納得のいく写真が撮れない。

「いい写真が撮れない」と悔しがり、嘆く新夏に、啓久は戸惑う。

「ニカの言ってること、全然わからない―

いや、わかるよ、わかりはするけど、何か得体が知れない。怖い」

一穂ミチ 『恋とか愛とかやさしさなら』 小学館, 2024, 134ページ

啓久も、新夏に対して「わからない」恐怖を感じるのだ。

私もこのエピソードの前までは、新夏に同調して読んでいたのだが、

一気に距離が遠ざかった気がした。

新夏にも、私には「わからない」部分があることに気づいた瞬間だった。

「わかりたい」を諦めたくない

頭も体も違うんだから、完全に他人同士がわかり合えることなんてない。

だけど、「わからない」=「一緒にいられない」と

バッサリ切り捨ててよいのだろうか?

 

人とわかり合えること、わかり合えないこと。

知った上で受け入れられること、受け入れられないこと。

その境界線は「ここまではOK、ここからはNG」とパキッと決まっているものではない。

 

その人と自分の現在の関係性(家族、友だち、ただの知り合い、見知らぬ人)や、

その人と自分が今後どうなりたいか、

によっても変わってくる。

 

常に正解の答えはない。だからこそ、悩んでしまう。

新夏みたいに悩み疲れてしまうよりも、

「わからないから付き合えません。さようなら」と切り捨てられたら楽だろう。

もちろん、自分を守るためにその選択をするのもありだと思う。

だけど、私はやっぱりあきらめたくない。

新夏にとっての啓久のように、大事な人ならば尚更、

その人を「わかりたい」という気持ちを諦めたくない。

だから私は本を読む

知らないことは怖い。

理解できない言動は気色悪い。

 

だけど他人である以上、私の知らない気持ちや感情を持つ人はいっぱいいる。

だからこそ、私は本を読むのだと思い至った。

 

普通の人には見せられない欲が詰まったブラックボックスを、

本は目の当たりにさせてくれる。

思わず盗撮してしまった啓久や、カメラマンの業に囚われる新夏のように。

そして、私自身のブラックボックスに同じものが入っているときは、安心するし、

まったく理解できないものが入っているときは、「なんで?」と考える。

「なにそれ、意味わかんない。生理的に無理」と却下するのは簡単だ。

だけどそれじゃあ何だか淋しい。

私は、「わかりたい」を諦めたくないから、本を読むのだ。